江戸時代の話。
とある13か、14歳くらいの少年が、、、
町中の表通りや、寺のまわりで、遊んでいた
自分より年下の子供を何人か、人目のつかないところに連れて行き
着ていた衣服をパッパと、はぎ取って持ち去ったりしていたが、
(被害者の子供には、特に怪我はさせていないらしい)
ある日、奉行所の役人に捕まった。
その少年は帰る家が無いホームレス(無宿者)であった。
まぁ、つまり、良さそうな服を着ている
自分より年下の子の衣服の追い剥ぎ
( ・・・とにかく、おいはぎ、強盗、強奪行為と見なされた )
を何件かやって、奪った物を売ったりして生活費を稼いでいた、、、
そして、江戸時代の特に、その事件が起こった時には
当時の幕府の刑法では
強制的に奪い取った金品、品物の額が大きかろうが小さかろうが
問答無用で 獄門(ごくもん)といって
盗んだ犯人の首を物理的にチョンパした後に
人目につくところで、その、はねた首がさらされる、という
決まりになっていた。
さすが、お江戸の時代。
しかし、奉行所の、その少年の裁判を担当した人が
「若いのに、かわいそうだ・・・」
ということで、
「 たしか、刑法(当時の刑法)では、15歳未満の者が、
なにか罪を犯したら、子供だから減刑すべき、
という定めになっていましたよね? 」
と、さらに自分よりも立場が上の幕府の人に
うかがってみたところ、、、
「 たしかに、そういう決まりになっていますね。
犯人は子供ですし、罪を一段階、軽くしてあげた方が、いいですねぇ~ 」
と、返事が返ってきた。
そして、ありがたいことに、その、おいはぎ少年の刑罰は
一段階軽いモノになって
「獄門」(ごくもん) から 「死罪」 になった!
・・・ふぁっ!? どういうことだってばよ!
獄門は先にも述べたとおり、首をチョンパ斬りして、切断した後に
その首が民衆の前で、さらされるが、、、
“死罪”になると、獄門と同じく
首はチョンパ切りには、されるが、
首をさらされることは無い!
つまり、獄門の刑から、一段階、軽くした罪が
死罪だと、いうことなのだった。。。
罪人側からすれば、獄門だろうが、死罪だろうが
どっちも自分が殺されて死ぬことには変わりないですよね・・・
しかし、お上にとってみれば
のちに似たような事例があった際に
裁く時の、指針ともなるべき前例となるような
重要な判断だったみたいですし、それに
「 自分の首が、公然とさらされることがなくなったなんて
よかったじゃないか!
死後も侮辱的な仕打ちをされないだけ慈悲深い処置である! 」
みたいな認識だったみたいですね、、、これぞ、お江戸時代クオリティ的な考え。
・・・とにかく、当時は、今で言う少年法みたいなモノは存在しなかったが
一応、15歳未満の子供が犯人の場合、
刑罰をワンランク落とすことになっていた。
しかし、刑が重すぎる犯罪(当時の感覚では重い犯罪)を
犯した場合には、
刑罰がワンランク減刑されるとしても
今回のように、死ぬことには変わりないケースが多かったみたいです。
刑罰が重すぎる、というか、
犯した罪と、
それに対する罰が全然釣り合っていないように見受けられますよね。
アンバランス。
何人かの子供の身ぐるみをはいだ、とはいえ
( やられた被害者はたまったものではないでしょうが )
殺人でもやったわけでもないのに。
なんというか、当時の幕府側は、犯人が子供でも
たとえ殺人とかやっていなくとも、ほとんど容赦はなかった。
まぁ、当時のホームレスに対して、もっと充実したセーフティネットとか
もちろんあるわけが無いし、
そういう事件が、当時起こらないようにするためには
孤児院みたいなところ、とか
簡単に住み込みで働かせてくれる場所とかあれば
よかったのでしょうが、、、、無いんだよなぁ当時は。
どうすれば、よかったんでしょうかね?
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